2023-12-16 しずかに投げ込む、ふたたび/こたつ
さてさて。
そんなことだろうとは思ったけどここ(しずかなインターネット https://sizu.me/amayadori/posts/mvniz3ohocb5 )もちょこっと触って放置することになっている。書きたい欲がなければ書かなくてもいいのだけど、書かないと書きたいともだんだん思わなくなってきて、思わないならそれでいいじゃないかとも思うがやっぱり、何かが身のなかにぎしぎしと溜まってくるのだった。
ブログをニュースレター(Substack)の方に移したけれど、やはり受信箱にそれが配達されるとなればある程度の体裁は整えなきゃいけないなという意識も働いてこんな風に書き殴ることができない。だからここは、いちいち書いたよ、というお知らせをしないままに、それこそしずかなインターネットとして、投げ込んではすうーとそれが沈黙に吸い込まれていくような、意識の暗闇に沈んでゆくような、そんなことでいいのかもしれない。
昨日は盛況のうちにSのコンサートが終わってひと安心。公演をオーガナイズする大変さは知っているし予算もないので補佐としてできる限り動いたのだけど、もしかしたら出演者以上に緊張して本番を迎えたかもしれない、なかなかにへとへとだ。でもお客さんがたくさん来てくれて嬉しかった。
公演はいつも赤字になるし(満員御礼でも)身や精神を削られるような思いをするのでもうこれを最後としたい、と毎回思うのだけれどお客さんが来て喜んでくれるとそれもすべて吹き飛んでしまう。単純な生き物ですね、舞台人というのは。
昨日の劇場は何度かお世話になっているところ。ダンスや芝居の上演が多い場所なのだけれどコンサート会場として音がいいから度々使わせてもらっている。
22時までに完全撤収をしないといけないのがかなりきつい(これ、大道具を伴うような芝居はできないよね?)。劇場の昔の姿を知る人によると、ここは深夜過ぎてもアーティストと観客がいつまでもワインをあけながらディスカッションできるような場所だったのだって。パリもご近所に気をつかうようになって、まあそれも大事なことではあるとも思いつつも、何だかつまんない。パリは祝祭みたいな雰囲気がほんとうになくなった。他の大都市と色を分け合って、同じような風景になってゆく。グローバルになるってこういうことだったかな。
#日記のこと #Sのコンサート
ー
友人と鍋をした。鍋をお腹いっぱい食べたけど、この会の主役は実はこたつなのだった。こたつに入りにおいで、ついでに鍋をしよう。の会。
こたつ、ひらがなで書くとなんだか角がとれていて、そういえば実家の、子どもの頃にあったこたつのテーブル部分の板の角は丸かった、表の面は偽の木目がついてつるつると黒く、裏返すと麻雀やトランプがしやすいように緑のフェルト地になっており、食後に花札などを家族でするのだった。脚は四角いけれど丸い四角と言いたいような柱で、でもこたつ、と書くと小さい秋田犬みたいでもある。かといって炬燵と書くと、なんだかひだるまみたい。熱すぎる。
こたつにあたったのは何年ぶりだろう。実家のこたつはすでに処分して長いから前回入ったこたつは祖母の家のこたつだ。
ひとり暮らしの祖母を、様子を見に行くという体でその実、生活から抜けてひと息つきたいような気持ちで時々訪ねた。祖母と過ごすのが好きだった。
ああそうだ。わたしはおばあちゃんのことが好きだったのだった。しばらく忘れていたな。子どものから大人になるまで、おばあちゃんが大好きだった。
こたつに潜り込んでふたりで居眠りしても誰にも怒られない。おばあちゃんとはいつも共犯関係だった。母に内緒で一緒にお菓子を食べたり夜更かししたり。本も好きなだけ読めた。時々鰻をとってくれた。お風呂ではんぺんみたいに白くてやわらかな背中を洗ってあげる。背中のどこにいぼがあるか、どんな風に背骨がたわみ、肋骨が浮き出ているか思い出せる。そんなにぺろぺろ洗わないで、もっとぎゅっとこすってよ、と言うので強く擦るが、すぐに赤くなるので心配になった。
こたつには焦茶色と鮮やかなみどりの格子模様のブランケットがかかってる。真四角のこたつなのにこたつ布団は長方形なので長くはみ出た方にもぐりこむ。ブランケットの端はけばけばしていて唇や鼻がくすぐったい。座布団を枕に本を開く。おばあちゃんが見ている歌番組がまざりこみ、だんだんとろとろ、読んでいる物語が夢にとけだし、夢がページの上に漂いだす。
フランスに行くよと話したら随分遠くに行くんだねえ、もうこれが会うのも最後かもね。と祖母は言った。70代の頃から20年間、別れ際にはいつもこのセリフを言うのだった。でも毎回ぴんぴんして再会する。その時もまたかと笑ったけれど、でもほんとうにもしかしたらそうなのかもしれないと思って、フィルムカメラで手を振る姿を撮ったのだった。太って大きかったおばあちゃんはいつのまにか透けて、こぢんまりとまるまって、誰かが家から帰るときだけなぜかかしこまって「さよなら」と言うのだった。
地震が来るのが分かるなまずのような人だった。ある夢をみるときには必ず宝くじが当たるという才能もあった。雷が鳴ると家の奥深くに姿を隠し、数時間出てこなかった。
なにひとつ残さずいってしまったのはあのひとらしい。宝くじが当たる才能だけでも残してくれたらよかったのに。
#おばあちゃんのこと
#12-17